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2018-10-02 00:33

(連載2)社会科学と哲学・人文学の境界

池尾 愛子  早稲田大学教授
 スミスは重農主義を批判する文脈において、自由貿易を推奨したものの、当時、通商条約はまだあまり結ばれておらず、ヨーロッパでも自由港は少なく、東アジアではオランダが貿易を独占しているのが現実であった。スミスにとって、自由貿易は世界の幸福の増進を約束するものであり、利己心によって導かれるべきものであった。『国富論』がキリスト教を帯びた英語で書かれていることを見逃してはならない。王堂は初めての世界大戦を経て、『象徴主義の文化へ』(1924)において、スミスの「幸福増進」の政治経済学の帰結はどうであったかを(戦争につながったと)シニカルに論評したのであった。

 時代がとぶが、1993年に欧州連合(EU)が誕生する前から、おそらく1987年に欧州共同体(EC)の「エラスムス」プログラム(EC内の大学生・院生・教員の交流を支援する)が始まる頃から、理論経済学・計量経済学以外の社会科学分野でも英語利用が進み始めていた。1990年代、ヨーロッパの英語を母語としない友人たちは、翻訳に頼ってスミスを読んだ後、哲学者バートランド・ラッセルの『幸福論』(Conquest of Happiness、1930)を読んでいた。平明な文体で書かれ、語彙は西洋言語ではかなり共通するようだ。同書は二部構成で、第一部「不幸の原因」、第二部「幸福をもたらすもの」となっている。欧米の歴史、伝統、小説が反映されている。第一部に登場する「ピーター大帝は不幸であった」「ナポレオンは不幸であった」話はよく会話にのぼった――これでラッセル『幸福論』を読んでいるか読んでいないかがわかった。第二部のラッセル自身の楽しい体験も会話のネタになることがあった。彼は川下りが趣味で、揚子江を遡上した経験を記している。日本のことも少し登場する。若い非英語母語話者たちの英会話の練習にちょうどよかったようだ。安藤貞雄氏による和訳では、pleasureに、「快楽」や「楽しみ」があてられた(日本語では、貝原益軒の『楽訓』(1710)を想起したい)。さらに思い出せば、1990年代当時、スミスの翻訳の性質も話題になっていた。(日本では、21世紀になって新訳が登場した。)

 経済学や科学の専門論文は専門用語を使ってわかりやすい英語で書くことになっていると思う。現代の幸福経済学では計量経済分析の手法が用いられ、いかなる宗教を持っている人でも、宗教がない人でも、近づけるように構成されている。しかし、数学や統計学を使わずに英語で論文を書くためには、まず英語を好きになることが大切で、そのためにはラッセル(『幸福論』に限らない)を読むのがよいと、一番の候補に挙げられていた。ラッセル『幸福論』が1930年に出てから、哲学でも経済学でもたくさんの話題が追加されている。しかし、『幸福論』では『伝道の書』からの引用を含めて、キリスト教に対する論評がしばしば登場するので、キリスト教と西洋哲学の関係、自らと宗教の関係を量るうえでも、今でも英語上達につながる良書ではないかと思う。

 ヨーロッパの文系アカデミズムの構成をみると、日本やアメリカに比べて、哲学者が非常に多いという現実がある。「自分は哲学者です」と私に自己紹介した人たちが何人かはいる。哲学者は言語文化の差異に敏感である。中期デューイは1915年に『ドイツ哲学と政治』と題する書物を刊行した時、ドイツ語と英語の相違(Kulturとcultureは全く異なる、など)を十分に踏まえたうえで、(当時の)ドイツ政治がドイツ語(での議論)に依存していると主張した。社会科学と人文学の境界にあたる分野では、学問の分類が相違するため、(簡単には)グローバル化は進まない。とはいえ、社会科学における英語力の向上については、数学や統計学と同様には、各個人レベルの努力が不可欠であることに加えて、哲学分野の知識も必要だと思う。ケインズ以前の英語圏経済学(リカードを除く)を扱うのであれば、キリスト教の知識も不可欠であろう。王堂の哲学書の入手が容易ではないことが残念至極に感じられる。(おわり)
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