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2020-01-06 09:19
ヒルシュマイヤーの渋沢栄一研究
池尾 愛子
早稲田大学教授
ヨハネス・ヒルシュマイヤーの論文集『工業化と企業家精神』(2014)の解説によれば、彼は1921年に中央ヨーロッパで生れた。終戦後、ボンの聖アウグスティン大神学校で哲学士の学位をとり、1951年まで神学科に在学していた。英語を1年間学んだ後、1952年、彼は宣教師として日本に到着した。彼は日本語を学んだあと、南山大学において初代学長から経済学研究を命じられ、留学先としてアメリカを指定された。その理由は、アメリカの研究者たちが日本近代政治経済史に熱い視線を注いでいたからであった。彼は1954年からアメリカ・カトリック大学大学院で経済学の基礎を学び、1955年にハーバード大学大学院で経済学を専攻し、A.ガーシェンクロンの指導の下、日本の経済発展を促した人的要因の解明に取り組んだ。博士論文執筆過程では、駐日大使を務めたE.ライシャワーの指導も受け、彼は1964年に博士論文を『日本における企業者精神の生成』と題して出版した。
ヒルシュマイヤーは米ミシガン大学の「近代日本研究会」にも参加した。「近代日本研究会」は1958年秋、ウィリアム・ロックウッド、ロナルド・ドーアを含む日本研究者たちが同大学に集結して組織したものである。そして1960年頃から日本人や在日西洋人研究者を含めて、日本の近代的発展の諸側面を共同で研究した。日本経済史の共同研究成果はロックウッドの編集により、1965年に『日本における国家と企業』と題して公刊された。大来佐武郎の監訳書は『日本経済近代化の百年:国家と企業を中心に』(1966)と題され、全15章のうち8章だけの和訳を収録した。
ヒルシュマイヤーの第5章「渋沢栄一――産業の先駆者」は現在でも和訳されていない。渋沢栄一(1840-1931)は大蔵省等の仕事をした後、銀行経営を中心に実業界のリーダーとして活躍した。同章では、明治期、政府官吏と勃興する近代的企業家階級が活力溢れるリーダーとして互いに緊密に協力し合って近代化が進められており、渋沢はその過程で傑出したリーダーであったと捉えられた。つまり彼らは私利に動かされていたというよりは、種々の経験を共有しつつ、日本全体のことを考えて行動していたと捉えられている。また同章では、渋沢の『論語と算盤』に関連して、「日本や東洋における論語は、西洋におけるギリシャ語・ラテン語に相当する」等として、西洋と日本や東洋の文化・伝統を対照させるような叙述が展開された。ハーバード大学の研究者たちを中心に西洋では「渋沢栄一が『日本型資本主義』の生みの親である」と捉えられているが、それはヒルシュマイヤーの渋沢研究にかなり依存しているようなので、英語で論文を書く時にはぜひ参照していただきたい。
渋沢より21歳若い天野為之は日本で最初の近代経済学者であったといえる。彼は『経済学研究法』(1890)において、「経済学の地位は其応用の部分に於て歩を道徳学に譲るものなり 故に道徳学の最高の教旨は決して単純なる経済上の利益の為めに軽々看過せらるべきものにあらず」と明言した。日本語の「近代経済学」はイギリス経済思想史の文脈では、“economics” にあたり、economics の父は(経済学に数学を導入した)A.マーシャルやW.S.ジェヴォンズである。アダム・スミスの「経済学」は ”political economy” であり、キリスト教を帯びた英語で書かれていることも忘れないでいただきたい。つまり道徳的配慮が埋め込まれていると解釈すべきなのである。英語圏の私の友人は、「19世紀以前のイギリス思想を研究する日本人にはJ.S.ミルの『自由論』を読んでほしい」と語ったことがある。同書はスミスの『国富論』以上に宗教色を色濃く帯びている。そして経済人仮説に言及するときには、J.N.ケインズの『経済学の範囲と方法』(1891)をぜひ参照してほしい(最初の和訳者は天野為之で、日本でもよく読まれたようである)。日本語の「経済学」は太宰春台の『経済録』(1729)に由来する。『日本経済新聞』の場合でも、イギリス経済思想を語るときには、英語で表現すればどうなるかを考えて書いていただきたい。英語で研究論文を書こうとする若手研究者たちが壁にぶつかることになるからである。
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