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2025-11-19 10:12
「存立危機事態」発言をめぐる中国の輿論戦・心理戦と日中関係
三船 恵美
駒澤大学法学部教授/日本国際フォーラム上席研究員
■ 劇的に悪化した日中関係
日中関係は、首脳会談からわずか十日ほどで、異様な緊張状態へと突入した。
2025年11月7日、衆院予算委員会における高市早苗総理の存立危機事態についての答弁をめぐり、中国が日本に対して「過剰」と言えるほど一連の反応を示した。高市総理が11月10日の衆院予算委員会で「特定のケースを想定したことについてこの場で明言することは慎む」と述べた後も、中国外交部が中国人に対して日本への渡航や留学を「自粛」するよう、異例の注意喚起を発するに至った。「禁止」ではなく「自粛」としている点について、中国がこの強硬姿勢を国内向けに用いているのか、あるいは、対日姿勢をさらに厳しいものへと段階的に硬化させていくのか、その意図を考察することが本稿の課題の1つである。
高市総理と中国国家主席の習近平氏が、日中両国の「戦略的互恵関係」の包括的な推進や「建設的かつ安定的な関係」の構築という大きな方向性を共有していることを確認し、握手を交わしたのは、つい最近の10月31日のことであった。その3日前(10月28日)には、茂木敏充外務大臣が中国外交部長の王毅氏と電話会談を行い、こうした大きな方向性の下、課題と懸案を減らし、理解と協力を増やしていくことで一致し、そのために外交当局の果たす役割の大きさを再確認した。両国は、首脳や外相を含め、様々なレベルでの意思疎通を行う重要性について確認したばかりであった。
11月18日時点での中国外交部の定例記者会見の文言から、中国側は「11月7日の情報」を正しく認識していない。あるいは、意図的に歪めている。多くの日本人からすれば、近年の日本の防衛政策転換を促す一因となっている国からのこの異様な「過剰反応」は、理解を超えている。この一般的な日本人からすれば理解を超えたほどの中国側の過剰反応は何を意味しているのであろうか。この中国側の反応の背景には、高市政権や自民党による国家安全保障戦略など安保関連3文書の改定や非核三原則の見直しなども射程に入れた中国側の戦術も含まれているのではあるまいか。
劇的な状況悪化の背景には、単なる政策対立を超え、高市政権の安定性に揺さぶりをかけ、日本国内の世論を分断しようとする中国の「輿論戦」の意図が垣間見える。
本稿は、この異例の中国の動向を「輿論戦」という視点から考えていく。
■ 「恣意的な切り取り」による中国の過剰反応
中国共産党機関誌『人民日報』は11月17日の論説で「高市(総理)の危険な発言は全当事者の神経を逆なでし、戦略的な無謀さを示しているだけでなく、意図的な挑発でもある」と掲載した。同日の中国外交部報道官の毛寧氏は、「一線を越える火遊びをやめ、誤った言動を撤回し、約束を実際の行動に移すよう促す」と訴えた。
高市総理は、11月7日の立憲民主党議員の岡田克也・元外相(2010年9月の尖閣諸島沖での中国船衝突時件の時の外相)に対する答弁で、「戦艦を使って武力の行使を伴うものであれば、どう考えても存立危機事態になり得るケースだと私は考えております。実際に発生した事態の個別具体的な状況に応じて、政府がすべての情報を統合して判断するということです」と答えている。従来よりも踏み込んではいるものの、法的に何ら問題はなく、また、従来からの理解の既定路線からも逸脱していなかった。
中国側のこの過剰な反応、および「挑発」「火遊び」といった表現は、質問者である岡田氏からの執拗な質疑の文脈を無視し、総理の発言から恣意的に切り取られた「戦艦を使って武力の行使を伴うものであれば、どう考えても存立危機事態になり得る」という部分だけにフォーカスをあてて、日本が台湾有事へ軍事介入する、と曲解して受け止めている。「挑発」「火遊び」をしたのは、岡田氏にこそふさわしい表現ではあるまいか。
高市総理の11月7日の答弁については、当初、台湾問題について、日本政府の姿勢が「対話により平和的に解決することを期待するというのが従来からの一貫した立場」であると表明し、「実際にその発生した事態の個別具体的な状況に即して、すべての情報を統合して判断しなければならないと考えております」「その時に生じた事態、いかなる事態が生じたかっていうことの情報を総合的に判断しなければならないと思っております」と複数回答していた。
存立危機事態の定義についても、事態対処法(武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律)の第2条第4項を指摘した。同法第2条第4項は、「存立危機事態 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう」と規定されている。
ちなみに台湾については、総理は岡田議員との応答で「他の地域」と明言しており、慎重に、「国」としては扱っていなかった。存立危機事態においての「我が国と密接な関係にある他国」とは、言うまでもなく、アメリカのことである。
これに対して、岡田克也氏が挑発的で執拗な質問を続け、総理が踏み込んだ発言をするに至った。総理の踏み込んだ発言は、むしろ岡田氏の執拗な追及によって引き出されたものと見るべきであろう。
■ 中国が仕掛ける「輿論戦」と「SNSを活用した戦狼外交」を続けてきた薛剣氏
日中関係が急激に悪化した問題の発端は、11月8日、中国駐大阪総領事の薛剣氏がXに投稿した文言にある。この投稿がすでに削除されていることから、薛剣氏の投稿が外交官として著しい問題のあることを、中国側も認識していると言える。
今回の高市総理の発言をめぐる薛剣氏によるSNS投稿は、輿論戦の一環と言えよう。
輿論戦とは、世論誘導やプロパガンダを戦略的に行う戦術であり、敵対する勢力や国家の意志決定に影響を与えることを目的とした情報戦・心理戦の1つである。中国の軍事戦略「三戦」(輿論戦、心理戦、法律戦)の一部である。中国の「三戦」は中国軍の政治工作の一部であり、中国は軍事闘争を政治、外交、経済、文化、法律などの分野の闘争と密接に呼応させる方針を掲げている。対象国の輿論の分断により社会の分極化を招くねらいがある。
薛剣氏は、「SNSを活用した戦狼外交」を長いこと行ってきた人物である。
例えば、ロシアのウクライナ侵攻直後には、「弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚かをしては行けない」「ウクライナ問題から銘記すべき一大教訓 弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚か(な行為)をしてはいけないこと」「仮にどこかほかの強い人が後ろに立って『応援する』と約束してくれても、だ」といった内容をSNSで投稿していた。これらは、ロシアの侵略を正当化し、ひいては、アメリカを後ろ盾にする日本や台湾に対する威嚇とも受け取れるものとして、当時、波紋を呼んだ。
まさに、「挑発」「火遊び」は、中国側の薛剣氏こそが仕掛けてきたものである。
11月18日、日本外務省の金井正彰アジア大洋州局長が訪中し、中国外交部の劉勁松アジア局長が北京の中国外交部で局長協議を開いた。両者は薛剣氏のSNS投稿を巡り、双方の立場を説明した。金井氏が中国外交部を発つ直前、ポケットに両手を突っ込みながら話す劉勁松氏の前で金井正彰氏が身長差のある通訳に耳を傾けた姿を捉えた動画が撮影された。まるで金井氏が劉氏に頭を下げたように見える場面を切り取った動画を、国営中央電視台(電子版)が配信し、中国のSNSで広まった。日本に対して中国側が優位であるかのようにアピールするためのプロパガンダと見られる。中国側は、まさに、外交官の立ち方1つまでをも輿論戦に利用している。
■ 中国側の「輿論戦」「心理戦」と日本の野党
高市総理は11月10日に「特定のケースを想定したことについてこの場で明言することは慎む」と述べたもののも、中国側の硬化は11月11日頃にエスカレートしていった。11月14日には、国防部の蒋斌報道官が、「もし日本側が歴史の教訓を深く汲み取らず、台湾海峡情勢に軍事介入するような無謀な行動に出れば、必ずや中国人民解放軍の鉄壁の前に打ち砕かれ、悲惨な代償を払うことになる」と、威圧的な言辞を用いた。
そもそも、高市総理の存立危機事態をめぐる発言は、岡田克也氏が執拗に台湾海峡を巡る情勢に関する様々な想定について挑発したことに始まる。
論者によっては、日中首脳会談後に高市首相がAPEC首脳会議に台湾代表として出席していた林信義氏と会談し、SNSに投稿したことを巡り、中国外交部が日本側に「強烈な抗議」をしたことが、習近平に怒りを買ったと見る向きもある。しかし、APECはアジア太平洋地域の21の「エコノミー」が参加する経済協力の枠組みである。台湾は「チャイニーズ・タイペイ」という名称の「エコノミー」として正式に参加している。日本を含む各国代表との交流が経済協力の場において慣例的に行われているため、この場での日本首相と台湾代表との会談に対する中国側の抗議は、APECの設立趣旨と実態にそぐわないものである。また、11月7日の発言から日中関係悪化のエスカレーションまで時差がある。
中国は、2026年秋に3度目となるAPECホスト国を務め、それを機に、「アジア太平洋共同体」の構築を推進することを打ち出している。また、「アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)」を推進することも表明している。地域的な包括的経済連携(RCEP)も拡大しようとしている。
そうした習近平の経済構想を前に、これほど激しい日中関係の悪化をしてまで、薛剣氏という大阪総領事のメンツを守るのであろうか。薛剣氏が投稿したSNSに問題があると中国側が実質的に認めていることは、薛剣氏の投稿が削除された時点で明らかであろう。この点を考えるならば、存立危機事態をめぐり総理の発言についての日中摩擦がエスカレートしていった背景には、この時期に、高市内閣や自民党が国家安全保障戦略など安保関連3文書の改定や非核三原則の見直しの議論着手にあたり、日本側への強力なプレッシャーを与えるという「輿論戦」「心理戦」が仕掛けられていたと見るべきであろう。
こうした中国側の「輿論戦」「心理戦」の動向を前に、日本の野党は、自らが中国側の戦略に利用されることのないよう、総理への「挑発」に日中関係を安易に使う「火遊び」を厳に慎むべきである。
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