国際政経懇話会

第225回国際政経懇話会
「違うことは良いことだ」(メモ)

 第225回国際政経懇話会は、大宅映子日本国際フォーラム評議員・評論家を講師に迎え、「違うことは良いことだ」と題して、下記1.~5.の要領で開催されたところ、その冒頭講話の概要は下記6.のとおりであった。

1.日 時:2010年6月18日(金)正午より午後2時まで
2.場 所:日本国際フォーラム会議室
3.テーマ:「違うことは良いことだ」
4.講 師:大宅 映子  日本国際フォーラム評議員・評論家
5.出席者:16名

6.講師講話概要

 大宅映子日本国際フォーラム評議員・評論家の講話概要は次の通り。その後、出席者との間で活発な質疑応答が行われたが、議論についてはオフレコを前提としている当懇話会の性格上、これ以上の詳細は割愛する。

国家的損失をもたらす「悪平等」

 日本人は、他人との「違い」を、常に「自分と比べて上か、下か」といった序列に変換して捉える傾向があり、「他人と違うこと」は「避けるべきこと」として排除してきた。現在の日本が抱える諸問題の根幹には、まさにこの「他人と違いがあってはいけない」という不文律がもたらした「個の不在」があると考えてよい。みんなが手をつないで一緒にゴールインする運動会のような競争を排除した教育を受けた子供たちが、大人になって急にリーダーシップを求められても、無理な話である。また最近は「格差」という言葉の氾濫がみられるが、日本人は単なる「差」と「格差」を混同している。「機会の平等」は必要だが、行動の結果は、個人の能力、努力、運などによって「差」が生じて当然だ、と捉える方が理にかなっている。結果を無理に均一化しようとする試みは「悪平等」であり、日本に特有の傾向である。逆に海外では、カナダのように、優秀な生徒に対し「gifted class」という特別なカリキュラムを用意して、エリート教育を施している。海外でそのような教育を受けた日本人の優秀な科学者、技術者などが、日本に帰ってくることは稀であり、結果的に日本の国家的損失となっている。

「平均」主義から「異能」主義への転換を

 明治期の知識人の福澤諭吉や夏目漱石や、大正期の童謡詩人の金子みすゞなどによって、「個の確立」の重要性は既に150年前から久しく指摘されてきたことであるが、今日の日本においても未だ定着していないと言わざるをえない。我が国で、なぜ「個」が確立されないのかについて、私たちは真剣に考える必要がある。「個」を滅却し、平均化することは、国民一人一人の劣化、ひいては国家の劣化にもつながりかねない。それゆえ、他人と異なる人や考え方を拒否する「平均」主義でから、他人と違う才能を見つけ、伸ばすという「異能」主義への切りかえが必要とされている。また、日本社会には「エリート」を認めない風潮があるが、何かを行うためには、人の上に立って行動する人物が必ず必要である。判断力、信念、説得力、責任感を持った人こそが「エリート」であり、そのような「エリート」が持つ権力を悪だと決めつけることは的外れだ。

日本人の意識改革のための指針

 日本人は完璧主義を追求するあまり、失敗を未然に「予防」する発想が強いが、そもそも失敗は避けられないことである以上、より重要なのは、個人に、いざリスクと直面しても対応可能なだけの鍛錬を重ねさせ、基礎体力をつけさせることである。また、完璧主義から「8割でOK」という姿勢に切りかえれば、「完璧を望むあまり、何も出来ない」という状況から脱却でき、物事が前進することで無駄とコストを減らすことができる。他方、日本人は、今後「数字に表すことができない価値」、「数字よりも人間にとつて重要なもの」を重視していく必要があるだろう。いうまでもなく、これらの前提となるのが「個の確立」であるが、そのためには、大きく分けて、第一に、自分は何がしたいのかを客観的に把握するという「自己確認」、第二に、その上で自分の意見をきちんとした言葉や行動で示すという「自己主張」、そして第三に、言葉や行動の結果に対して責任を取るという「自己責任」が不可欠である。

(文責、在事務局)