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2008-09-27 22:05

(連載)柔道は「武道」か「スポーツ」か(1)

亀山 良太  自営業
 北京オリンピックにおける日本柔道の敗因を、メディアは「柔道がJUDOに敗れた」と表現した。「JUDO」とは、欧州選手の闘い方のことで、組み合っての一本勝ちにこだわらず、レスリングもどきのタックルや、足をすくったりして、小さなポイントを重ね、判定勝ちを狙うスタイルである。日本の指導者たちは「JUDOはもはや武道ではない」とコメントしていた。いいかえれば「日本柔道は試合の勝利だけでなく、伝統武道を守っているのだ」と差別化をしているのである。国際大会で敗れるたびに聞きなれた釈明といえるが、世間はなんとなくその論調に納得してしまっている。残念なことに「やってることは同じスポーツじゃないか」という反論はなかった。では、いったいスポーツと武道の違いとはなんだろうか?

 スポーツの発祥は、乱暴者をルールの下に戦わせ、ケンカをさせないようにすることであった。その本質は「遊び」(非実用)であり、ケンカのかわりである試合そのものを目的としている。試合は、規律性、公平性、安全性が貫かれており、ルールに違反した者は罰則が課せられる。試合終了を「ノーサイド」というのは「もうケンカはしない」という誓いであり、その精神を「スポーツマンシップ」という。武道は、戦場で戦う技術として発祥した。武道の本質は「実用」であり、その目的は実戦であって試合ではない。試合は文字通り「試し合い」なのであり、修行の一環にあたる。もちろん戦場においては「他律」(ルール)は存在しない。ところが、先人たちは、何をやってもよいとは考えなかった。

 命がけの局面でも美学を求め、「自律」をたしなみとしたのである。たとえば、喉仏を破壊するのではなく、頚動脈を絞めて落とす、という具合にである。「ルールで禁じられていなければ、何をやってもいい」と考える西洋の発想とは決定的に異なっている。このように、スポーツと武道は正反対の遺伝子から進化した。しかし、現代においてその境界は混乱している。いや、混乱というより、武道の論理がスポーツの論理に飲み込まれてしまった、といった方が正しい。歴史をさかのぼれば、明治時代に西洋文化が輸入されたときに、スポーツも同時に受け入れられ、それにともなって、柔道がスポーツの論理にのっとって学校教育に採用された、あたりが混乱の始まりと思われる。(つづく)
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(連載)柔道は「武道」か「スポーツ」か(1) 亀山 良太  2008-09-27 22:05
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