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2008-11-01 22:51
「大空位時代」に考えるべきこと
古屋 力
会社員
いまや歴史的にめったにない「大空位時代」の真っ只中に、我々は生きている。危機は古いものが死に、新しいものがまだ生まれることができないでいる、未完の中にあると言われている。この空白の時代に、さまざまな病理現象があらわれる。たしかに現在の我々は、この「主人公不在の空白の時代」「大空位時代」に漂っているのかもしれない。その1つの症例がサブプライム問題である。しかし、一方でこういう考え方もできる。この「大空白の時代」は、チャンスである。見通しがたたずに不安であるかもしれないが、考えかたによっては、いままで頼ってきたシステムの本質的な問題や故障を見直して、抜本的改善を試みる好機でもある。場合によっては、土台からもう一度作り直せる、またとない空前絶後のよい機会かもしれない。むしろ、そう考えるほうが健全だろう。とりわけ昨今の気候変動等の地球環境問題も切迫してきている中で、環境の内部化も考慮に入れて、環境と人間に優しい、まったく新しいパラダイムの構築を、全世界の知性が結集して具現することが急務であると考える。
それでは、このまたとない機会に、我々は何を基準に新たなパラダイムの再構築を試みたらいいのであろうか。基準が2つあると思う。1つは「人間の真の幸福とは何か」という基準である。もう1つは「地球環境にとってやさしいか」という基準である。前者は、ここのところ行き過ぎた「金もうけ主義」に対する反省を求めるもので、金もうけという手段を目的化してきてしまった不幸な仕組みを、もう一度根本からバラバラにして、丁寧に組み立てなおし、人々に優しさや心のぬくもりや笑顔やゆとりを復活させる作業が求められると思う。そして後者は、行過ぎた大量消費・大量生産のあげくの果ての地球環境破壊が、ほかならぬ自分達人間の仕業であることを深く反省しつつ、気候変動問題等の様々な環境配慮行動を内部化し、粘り強く日常化させてゆく作業である。どちらも、その背景には「貨幣」と「金融」が見え隠れしている。換言すれば、「貨幣」と「金融」の問題への抜本的な処方箋なくして、解決できないのである。実にやっかいで、しぶとい難問ではあるが。
かつてこの本質的な問題に注目し、その分析を試みた先哲が、マックス・ヴェーバーであった。彼は、近代資本主義の本質を巡る論争において、プロテスタントの倫理と産業資本主義の精神を論じた。そして、ヴェルナー・ゾンバルトとの大論争で、ゾンバルトの説く金融資本主義と真っ向から対立した。マックス・ヴェーバーは、「少なくとも勤務時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃金がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなく、あたかも労働が自己目的(天職=Beruf)であるかのように励む、という心情」を「資本主義の精神」であると説いている。また、「自己の貪欲を抑制できることが、産業資本主義成立の前提条件である」と喝破している。そして、マックス・ヴェーバーは、「単なる貨幣の操作からは、健常な資本主義を作り上げる精神は生まれてこない」とまで言っている。これは、ヴェルナー・ゾンバルトの説く「貨幣欲に突き動かされたものが資本主義精神である」とする金融資本主義とは、根本的に全く違う認識である。
貨幣が急速に流通し、金融経済を加速させると、人間と人間との関係がよそよしくなってゆく。確かに、一生懸命汗を流して、働いて、得た真っ当な富と比較して、情報の非対称性のギャップを梃子に要領の良いリバレッジで、投資銀行の青二才が自分の父親くらいの工場経営者の百倍もの所得を得ている風景は、尋常ではないし、不健全な匂いがする。既にそこにある既存リスクを最小化する意味で、金融工学の存在意義と効用を認めはするが、要は程度問題であり、問題を先送りしたり、リスクをパス・スルーするだけで、法外な所得を得るのは、どうみてもおかしい。場合によっては、意図的でないにしても、十分な説明がなされないまま投資した投資家の多くが莫大な損失を負っている現下の諸状況を見るに、全てを投資家の不見識や自己責任に帰すのは、乱暴な気もするし、一種のババ抜きゲームのいかがわしさなり、詐欺や罪の匂いまで感じてしまう。貨幣や金融はあくまでも黒子であり、表舞台ででかい顔をしてはならないのである。貨幣量には節操が必要で、過剰な貨幣量の流布は、人々の人心と地球環境の双方を毀損し、いずれも不幸にする、と思うのは杞憂だろうか。いまこそマックス・ヴェーバーの箴言に耳を傾けつつ、まったく新しいパラダイムの構築を、全世界の知性が結集して具現する必要があると考える。
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