世話人コメンタリー グリーンランド防衛協定から読む「分有化」する北極の秩序 2026年月9月29日高畑 洋平 9月22日、米国、デンマーク、グリーンランドは、グリーンランドの防衛をめぐる既存の取り決めを改め、補う協定に署名した。報道では米軍の活動拡大が注目されたが、この協定が示すものは基地の増設だけではない。北極で安全保障上の競争が強まる中、誰が防衛を担い、重要な資源やインフラをどう管理し、そこに暮らす人々の意思をどう反映するのか。現在の国際秩序が抱える問いが、グリーンランドに凝縮されている。 領有ではなく、防衛上の権限拡大 協定を読むうえで、まず確認すべきことがある。これは米国がグリーンランドを領有する協定ではない。前文には、デンマーク王国の主権と領土保全、グリーンランドの人々の自己決定権が明記されている。一方で、米国の軍事活動に認められる範囲は広がる。この両面を見なければ、協定の実質を捉えられない。 第一に、米国が以前から利用しているピトゥフィク宇宙基地での活動を近代化・拡大するとともに、南部のナルサルスアークと東部のメステルスヴィに新たな防衛区域を設ける道を開いた。協定はこれに加え、米軍の防衛区域間の移動、米軍機の飛行・着陸、米公船の領海内での水中移動についても定めている。したがって、二か所の施設を設けるかどうかにとどまらず、グリーンランドの陸・海・空における米軍の活動全体に関わる合意である。NATOの北極における計画、プレゼンス、演習、共同の情報収集を強める方向も示された。 ただし、新たな防衛区域で何を、どの規模で設け、どう運用するかまで、署名によってすべて確定したわけではない。協定は実施の技術的条件を三者の合意に委ね、さらに別の防衛区域を設ける場合にも、場所、規模、活動内容や影響を緩和する措置について協議する仕組みを定めている。「二つの大規模基地が既に完成することになった」といった説明は、本文を先取りするものだ。 第二に、協定は経済活動を安全保障から切り離していない。重要インフラや資源採掘などの機微な分野では、特定の外国政府や投資家が支配力、重要な影響力、あるいは安全保障上の脅威となり得る非公開情報へのアクセスを得ることに条件を設けた。港湾、通信、鉱物資源は経済発展に必要である一方、その管理のあり方は防衛にも関わる。もっとも、協定を「中国によるあらゆる経済活動の一律禁止」と説明するのは正確ではない。条文の対象と条件を見分ける必要がある。 第三に、この取り決めは長期を見据えている。協定に終了期限はなく、将来グリーンランドが独立する場合にも防衛上の取り決めを引き継ぐ方向を定めた。ただし、それによって独立やNATO加盟が自動的に実現するわけではない。また、署名と発効も区別しなければならない。協定本文は、デンマーク王国とグリーンランドに必要な議会手続きの完了を米国へ通告した日に発効すると定めている。 米政府の広報には、グリーンランドの安全保障上の利益について「永続的な支配」を得たといった強い表現がある。しかし、広報上の「支配」を領有権や、米国が将来を単独で決める権限と読み替えるべきではない。他方で、主権と自己決定が明記されたことだけを理由に、米国の防衛上の活動拡大を過小評価するのも適切ではない。私は今回の協定を、米国の防衛上の要求と、デンマークの主権、グリーンランドの自己決定を、三者が既存の協力の積み重ねの上で改めて調整した合意と捉えている。 今後問われるのは、協定上の原則が実際の運用にも反映されるかである。グリーンランド政府が協定の当事者となることと、新たな防衛区域の近くで暮らす人々の声が具体的な判断に届くことは、同じではない。施設の規模、地元の雇用や経済的利益、生活や環境への負担を、三者がどう扱うか。協定の持続可能性は、実施の過程で試される。 北極をめぐる米中露の異なる関心 なぜいま北極への関心が高まるのか。地図を北極点の上から見ると、北極は世界の端ではなく、北米、欧州、ロシアを結ぶ地域だと分かる。北方からの脅威を監視し、北米と北大西洋の安全を考えるうえで重要である。同時に、海上交通やエネルギー・鉱物資源への関心も集まる。気候変動による海氷の長期的な変化と、ロシアのウクライナ侵攻後の安全保障環境の変化が重なった。ただし、海氷の減少は、北極海が直ちに通年で安全に航行できることを意味しない。船舶、港湾、観測、救難、保険や採算の条件まで見なければならない。 この地域を「米中露の覇権争い」と一括りにすると、各国の立場の違いが見えにくくなる。 米国にとっての中心は、北米と同盟国の防衛である。ピトゥフィク基地はミサイルの早期警戒や宇宙空間の監視を担う。グリーンランドは北米防衛と、北大西洋を通じた欧州の同盟国の防衛を結ぶ位置にある。今回の協定は、その場所で米国が長期にわたって活動するための条件を強めるものと読める。さらに米国は、基地の周囲の重要インフラや投資が安全保障上の弱点とならないかを重視している。 ロシアにとって北極は、自国の北方そのものである。北方の防衛と核抑止、資源開発、沿岸の北方航路が国家戦略に結びつく。米国とNATOがグリーンランドでの監視・防衛を強めれば、ロシアは北極から北大西洋にかけての戦略環境の変化として受け止めるだろう。しかし、ロシアの主要な軍事拠点や資源開発の中心がグリーンランドにあるわけではない。ロシア自身の動きを示す具体例は、自国沿岸の北方航路である。ロシアはその利用と運営を進め、中国との輸送協力も拡大しようとしている。輸送の取り組みが進むことと、誰もが通年で安定して利用できる航路が完成することは、分けて考えたい。 中国は、北極に領土を持たない立場から関与を広げている。研究船による観測、航路の利用、資源への関心、国際的な議論への参加がその経路となる。今年の複数の研究船による北極調査は、科学的な知識を生み出す活動であると同時に、海洋や海底に関する情報が航行や安全保障にも関わり得ることを考えさせる。ただし、個々の科学調査が軍事目的だと確認されたわけではない。公共的な研究の価値を認めながら、データの利用や管理について透明性を問う姿勢が必要である。 中国とロシアが協力を深めても、両者の利害は同一ではない。中国は航路を利用する側として予測可能なアクセスを求め、ロシアは自国沿岸の航路を管理する側にある。協力の中にも立場の違いがある。 「分有化」は北極の三分割ではない 著者は、こうした変化を「分有化」という視点から捉えている。国際秩序を一国や一つの包括的な制度で管理することが難しい中、問題ごとに異なる国や枠組みが秩序の一部を担い、事実上の管理の仕方が形づくられていく変化である。北極では、大国間の競争がある一方、安全保障、航行、漁業、資源、環境、科学を一括して扱う制度はない。2008年のイルリサット宣言で、北極海沿岸の五カ国は既存の海洋法を基礎とし、北極海を統治する新たな包括的な国際法制度は必要ないとの立場を示した。「北極には法がない」「個別の協定も不要」という意味ではない。実際には、課題ごとに異なる取り決めが積み重なっている。 今回の協定では、グリーンランドの防衛について米国、デンマーク、グリーンランドが明文で調整した。一方、ロシア沿岸の航路には別の制度と利用国との関係があり、漁業、船舶の安全、科学、環境にもそれぞれの枠組みがある。これらは、米中露が合意して北極を三つに分けたことを意味しない。場所と分野によって異なる当事者や取り決めが並び、重なり、ときには隙間を残していることを説明する概念が「分有化」である。 重要なのは、その仕組みを誰がつくり、誰の声が届くかだ。大国の防衛や経済上の判断だけが先行すれば、現地社会の意思や環境上の共通利益が後回しになる。グリーンランドを地図上の「空白」として扱ってはならない。そこには人々が暮らし、自分たちの将来を議論している。 また、安全保障上の競争が強まっても、国際協力が全面的に終わったわけではない。北極評議会は軍事安全保障を扱う場ではない。ロシアによるウクライナ侵攻後、政治レベルの会合は停止している一方、科学や作業部会レベルの会合はオンラインで再開している。海氷・気象の観測、船舶の安全、環境保護には、引き続き国境を越えた協力が要る。対立か協力かの二択ではなく、どの分野で何が維持でき、どこに新たな取り決めが必要かを見なければならない。 日本は何を持ち寄るのか 日本には北極圏の領土がない。しかし、北極の環境変化は地球規模の気候や気象に関わり、航路や資源、安全保障をめぐる動きも日本と無関係ではない。日本が重視すべき第一の役割は、継続的な科学観測から信頼できる知見を生み、各国が判断を共有できる土台を提供することだと考える。整備が進む北極域研究船「みらいⅡ」を国際共同研究に生かし、その成果を航行の安全や環境保護、政策の議論につなぐことが重要である。 科学を「外交カード」にするという言い方には、慎重さも必要だ。研究を都合のよい政治的主張に従わせれば、科学が外交にもたらす信頼を失う。また、観測データや技術には民生と安全保障の双方に関わり得るものがある。国際協力に必要な開放性を保ちつつ、何を共有し、何を慎重に扱うかを、研究の独立性と透明性を守りながら判断しなければならない。 第二に、分野ごとのルールを実効的にし、その間をつなぐ役割がある。日本は中央北極海における無規制な公海漁業を防ぐ協定の当事国であり、航行の安全や環境保護についても国際的な仕組みに関わる立場にある。科学的な知見を制度上の判断に結びつけ、北極圏の国々や現地の人々の意思を尊重しながら協力することが必要だ。 第三に、北極を北極だけの問題として閉じないことである。北極での協力は、米国との同盟、北欧諸国との関係、海洋秩序、気候変動への対応ともつながる。安全保障上の現実を直視しつつ、科学や環境、航行の安全の分野では協力の余地を探る。その際も、北極圏の国々の主権と、現地社会の自己決定を置き去りにしてはならない。 グリーンランド防衛協定の行方は、施設の建設だけで決まるものではない。防衛上の利益と主権、自己決定、地元の暮らしを、実施の中でどこまで両立できるかが問われる。北極全体についても同じである。競争と協力が併存する現実を見据え、科学、法、現地社会の声をつなぎ続けること。それが、分有化する北極の秩序に日本が関わる道だと考える。 本稿は、2026年9月28日放送のBS日テレ『深層NEWS』の取材を契機に、筆者の見解を整理したものである。
世話人コメンタリー グリーンランド防衛協定から読む「分有化」する北極の秩序 2026年月9月29日高畑 洋平 9月22日、米国、デンマーク、グリーンランドは、グリーンランドの防衛をめぐる既存の取り決めを改め、補う協定に署名した。報道では米軍の活動拡大が注目されたが、この協定が示すものは基地の増設だけではない。北極で安全保障上の競争が強まる中、誰が防衛を担い、重要な資源やインフラをどう管理し、そこに暮らす人々の意思をどう反映するのか。現在の国際秩序が抱える問いが、グリーンランドに凝縮されている。 領有ではなく、防衛上の権限拡大 協定を読むうえで、まず確認すべきことがある。これは米国がグリーンランドを領有する協定ではない。前文には、デンマーク王国の主権と領土保全、グリーンランドの人々の自己決定権が明記されている。一方で、米国の軍事活動に認められる範囲は広がる。この両面を見なければ、協定の実質を捉えられない。 第一に、米国が以前から利用しているピトゥフィク宇宙基地での活動を近代化・拡大するとともに、南部のナルサルスアークと東部のメステルスヴィに新たな防衛区域を設ける道を開いた。協定はこれに加え、米軍の防衛区域間の移動、米軍機の飛行・着陸、米公船の領海内での水中移動についても定めている。したがって、二か所の施設を設けるかどうかにとどまらず、グリーンランドの陸・海・空における米軍の活動全体に関わる合意である。NATOの北極における計画、プレゼンス、演習、共同の情報収集を強める方向も示された。 ただし、新たな防衛区域で何を、どの規模で設け、どう運用するかまで、署名によってすべて確定したわけではない。協定は実施の技術的条件を三者の合意に委ね、さらに別の防衛区域を設ける場合にも、場所、規模、活動内容や影響を緩和する措置について協議する仕組みを定めている。「二つの大規模基地が既に完成することになった」といった説明は、本文を先取りするものだ。 第二に、協定は経済活動を安全保障から切り離していない。重要インフラや資源採掘などの機微な分野では、特定の外国政府や投資家が支配力、重要な影響力、あるいは安全保障上の脅威となり得る非公開情報へのアクセスを得ることに条件を設けた。港湾、通信、鉱物資源は経済発展に必要である一方、その管理のあり方は防衛にも関わる。もっとも、協定を「中国によるあらゆる経済活動の一律禁止」と説明するのは正確ではない。条文の対象と条件を見分ける必要がある。 第三に、この取り決めは長期を見据えている。協定に終了期限はなく、将来グリーンランドが独立する場合にも防衛上の取り決めを引き継ぐ方向を定めた。ただし、それによって独立やNATO加盟が自動的に実現するわけではない。また、署名と発効も区別しなければならない。協定本文は、デンマーク王国とグリーンランドに必要な議会手続きの完了を米国へ通告した日に発効すると定めている。 米政府の広報には、グリーンランドの安全保障上の利益について「永続的な支配」を得たといった強い表現がある。しかし、広報上の「支配」を領有権や、米国が将来を単独で決める権限と読み替えるべきではない。他方で、主権と自己決定が明記されたことだけを理由に、米国の防衛上の活動拡大を過小評価するのも適切ではない。私は今回の協定を、米国の防衛上の要求と、デンマークの主権、グリーンランドの自己決定を、三者が既存の協力の積み重ねの上で改めて調整した合意と捉えている。 今後問われるのは、協定上の原則が実際の運用にも反映されるかである。グリーンランド政府が協定の当事者となることと、新たな防衛区域の近くで暮らす人々の声が具体的な判断に届くことは、同じではない。施設の規模、地元の雇用や経済的利益、生活や環境への負担を、三者がどう扱うか。協定の持続可能性は、実施の過程で試される。 北極をめぐる米中露の異なる関心 なぜいま北極への関心が高まるのか。地図を北極点の上から見ると、北極は世界の端ではなく、北米、欧州、ロシアを結ぶ地域だと分かる。北方からの脅威を監視し、北米と北大西洋の安全を考えるうえで重要である。同時に、海上交通やエネルギー・鉱物資源への関心も集まる。気候変動による海氷の長期的な変化と、ロシアのウクライナ侵攻後の安全保障環境の変化が重なった。ただし、海氷の減少は、北極海が直ちに通年で安全に航行できることを意味しない。船舶、港湾、観測、救難、保険や採算の条件まで見なければならない。 この地域を「米中露の覇権争い」と一括りにすると、各国の立場の違いが見えにくくなる。 米国にとっての中心は、北米と同盟国の防衛である。ピトゥフィク基地はミサイルの早期警戒や宇宙空間の監視を担う。グリーンランドは北米防衛と、北大西洋を通じた欧州の同盟国の防衛を結ぶ位置にある。今回の協定は、その場所で米国が長期にわたって活動するための条件を強めるものと読める。さらに米国は、基地の周囲の重要インフラや投資が安全保障上の弱点とならないかを重視している。 ロシアにとって北極は、自国の北方そのものである。北方の防衛と核抑止、資源開発、沿岸の北方航路が国家戦略に結びつく。米国とNATOがグリーンランドでの監視・防衛を強めれば、ロシアは北極から北大西洋にかけての戦略環境の変化として受け止めるだろう。しかし、ロシアの主要な軍事拠点や資源開発の中心がグリーンランドにあるわけではない。ロシア自身の動きを示す具体例は、自国沿岸の北方航路である。ロシアはその利用と運営を進め、中国との輸送協力も拡大しようとしている。輸送の取り組みが進むことと、誰もが通年で安定して利用できる航路が完成することは、分けて考えたい。 中国は、北極に領土を持たない立場から関与を広げている。研究船による観測、航路の利用、資源への関心、国際的な議論への参加がその経路となる。今年の複数の研究船による北極調査は、科学的な知識を生み出す活動であると同時に、海洋や海底に関する情報が航行や安全保障にも関わり得ることを考えさせる。ただし、個々の科学調査が軍事目的だと確認されたわけではない。公共的な研究の価値を認めながら、データの利用や管理について透明性を問う姿勢が必要である。 中国とロシアが協力を深めても、両者の利害は同一ではない。中国は航路を利用する側として予測可能なアクセスを求め、ロシアは自国沿岸の航路を管理する側にある。協力の中にも立場の違いがある。 「分有化」は北極の三分割ではない 著者は、こうした変化を「分有化」という視点から捉えている。国際秩序を一国や一つの包括的な制度で管理することが難しい中、問題ごとに異なる国や枠組みが秩序の一部を担い、事実上の管理の仕方が形づくられていく変化である。北極では、大国間の競争がある一方、安全保障、航行、漁業、資源、環境、科学を一括して扱う制度はない。2008年のイルリサット宣言で、北極海沿岸の五カ国は既存の海洋法を基礎とし、北極海を統治する新たな包括的な国際法制度は必要ないとの立場を示した。「北極には法がない」「個別の協定も不要」という意味ではない。実際には、課題ごとに異なる取り決めが積み重なっている。 今回の協定では、グリーンランドの防衛について米国、デンマーク、グリーンランドが明文で調整した。一方、ロシア沿岸の航路には別の制度と利用国との関係があり、漁業、船舶の安全、科学、環境にもそれぞれの枠組みがある。これらは、米中露が合意して北極を三つに分けたことを意味しない。場所と分野によって異なる当事者や取り決めが並び、重なり、ときには隙間を残していることを説明する概念が「分有化」である。 重要なのは、その仕組みを誰がつくり、誰の声が届くかだ。大国の防衛や経済上の判断だけが先行すれば、現地社会の意思や環境上の共通利益が後回しになる。グリーンランドを地図上の「空白」として扱ってはならない。そこには人々が暮らし、自分たちの将来を議論している。 また、安全保障上の競争が強まっても、国際協力が全面的に終わったわけではない。北極評議会は軍事安全保障を扱う場ではない。ロシアによるウクライナ侵攻後、政治レベルの会合は停止している一方、科学や作業部会レベルの会合はオンラインで再開している。海氷・気象の観測、船舶の安全、環境保護には、引き続き国境を越えた協力が要る。対立か協力かの二択ではなく、どの分野で何が維持でき、どこに新たな取り決めが必要かを見なければならない。 日本は何を持ち寄るのか 日本には北極圏の領土がない。しかし、北極の環境変化は地球規模の気候や気象に関わり、航路や資源、安全保障をめぐる動きも日本と無関係ではない。日本が重視すべき第一の役割は、継続的な科学観測から信頼できる知見を生み、各国が判断を共有できる土台を提供することだと考える。整備が進む北極域研究船「みらいⅡ」を国際共同研究に生かし、その成果を航行の安全や環境保護、政策の議論につなぐことが重要である。 科学を「外交カード」にするという言い方には、慎重さも必要だ。研究を都合のよい政治的主張に従わせれば、科学が外交にもたらす信頼を失う。また、観測データや技術には民生と安全保障の双方に関わり得るものがある。国際協力に必要な開放性を保ちつつ、何を共有し、何を慎重に扱うかを、研究の独立性と透明性を守りながら判断しなければならない。 第二に、分野ごとのルールを実効的にし、その間をつなぐ役割がある。日本は中央北極海における無規制な公海漁業を防ぐ協定の当事国であり、航行の安全や環境保護についても国際的な仕組みに関わる立場にある。科学的な知見を制度上の判断に結びつけ、北極圏の国々や現地の人々の意思を尊重しながら協力することが必要だ。 第三に、北極を北極だけの問題として閉じないことである。北極での協力は、米国との同盟、北欧諸国との関係、海洋秩序、気候変動への対応ともつながる。安全保障上の現実を直視しつつ、科学や環境、航行の安全の分野では協力の余地を探る。その際も、北極圏の国々の主権と、現地社会の自己決定を置き去りにしてはならない。 グリーンランド防衛協定の行方は、施設の建設だけで決まるものではない。防衛上の利益と主権、自己決定、地元の暮らしを、実施の中でどこまで両立できるかが問われる。北極全体についても同じである。競争と協力が併存する現実を見据え、科学、法、現地社会の声をつなぎ続けること。それが、分有化する北極の秩序に日本が関わる道だと考える。 本稿は、2026年9月28日放送のBS日テレ『深層NEWS』の取材を契機に、筆者の見解を整理したものである。
9月22日、米国、デンマーク、グリーンランドは、グリーンランドの防衛をめぐる既存の取り決めを改め、補う協定に署名した。報道では米軍の活動拡大が注目されたが、この協定が示すものは基地の増設だけではない。北極で安全保障上の競争が強まる中、誰が防衛を担い、重要な資源やインフラをどう管理し、そこに暮らす人々の意思をどう反映するのか。現在の国際秩序が抱える問いが、グリーンランドに凝縮されている。
領有ではなく、防衛上の権限拡大
協定を読むうえで、まず確認すべきことがある。これは米国がグリーンランドを領有する協定ではない。前文には、デンマーク王国の主権と領土保全、グリーンランドの人々の自己決定権が明記されている。一方で、米国の軍事活動に認められる範囲は広がる。この両面を見なければ、協定の実質を捉えられない。
第一に、米国が以前から利用しているピトゥフィク宇宙基地での活動を近代化・拡大するとともに、南部のナルサルスアークと東部のメステルスヴィに新たな防衛区域を設ける道を開いた。協定はこれに加え、米軍の防衛区域間の移動、米軍機の飛行・着陸、米公船の領海内での水中移動についても定めている。したがって、二か所の施設を設けるかどうかにとどまらず、グリーンランドの陸・海・空における米軍の活動全体に関わる合意である。NATOの北極における計画、プレゼンス、演習、共同の情報収集を強める方向も示された。
ただし、新たな防衛区域で何を、どの規模で設け、どう運用するかまで、署名によってすべて確定したわけではない。協定は実施の技術的条件を三者の合意に委ね、さらに別の防衛区域を設ける場合にも、場所、規模、活動内容や影響を緩和する措置について協議する仕組みを定めている。「二つの大規模基地が既に完成することになった」といった説明は、本文を先取りするものだ。
第二に、協定は経済活動を安全保障から切り離していない。重要インフラや資源採掘などの機微な分野では、特定の外国政府や投資家が支配力、重要な影響力、あるいは安全保障上の脅威となり得る非公開情報へのアクセスを得ることに条件を設けた。港湾、通信、鉱物資源は経済発展に必要である一方、その管理のあり方は防衛にも関わる。もっとも、協定を「中国によるあらゆる経済活動の一律禁止」と説明するのは正確ではない。条文の対象と条件を見分ける必要がある。
第三に、この取り決めは長期を見据えている。協定に終了期限はなく、将来グリーンランドが独立する場合にも防衛上の取り決めを引き継ぐ方向を定めた。ただし、それによって独立やNATO加盟が自動的に実現するわけではない。また、署名と発効も区別しなければならない。協定本文は、デンマーク王国とグリーンランドに必要な議会手続きの完了を米国へ通告した日に発効すると定めている。
米政府の広報には、グリーンランドの安全保障上の利益について「永続的な支配」を得たといった強い表現がある。しかし、広報上の「支配」を領有権や、米国が将来を単独で決める権限と読み替えるべきではない。他方で、主権と自己決定が明記されたことだけを理由に、米国の防衛上の活動拡大を過小評価するのも適切ではない。私は今回の協定を、米国の防衛上の要求と、デンマークの主権、グリーンランドの自己決定を、三者が既存の協力の積み重ねの上で改めて調整した合意と捉えている。
今後問われるのは、協定上の原則が実際の運用にも反映されるかである。グリーンランド政府が協定の当事者となることと、新たな防衛区域の近くで暮らす人々の声が具体的な判断に届くことは、同じではない。施設の規模、地元の雇用や経済的利益、生活や環境への負担を、三者がどう扱うか。協定の持続可能性は、実施の過程で試される。
北極をめぐる米中露の異なる関心
なぜいま北極への関心が高まるのか。地図を北極点の上から見ると、北極は世界の端ではなく、北米、欧州、ロシアを結ぶ地域だと分かる。北方からの脅威を監視し、北米と北大西洋の安全を考えるうえで重要である。同時に、海上交通やエネルギー・鉱物資源への関心も集まる。気候変動による海氷の長期的な変化と、ロシアのウクライナ侵攻後の安全保障環境の変化が重なった。ただし、海氷の減少は、北極海が直ちに通年で安全に航行できることを意味しない。船舶、港湾、観測、救難、保険や採算の条件まで見なければならない。
この地域を「米中露の覇権争い」と一括りにすると、各国の立場の違いが見えにくくなる。
米国にとっての中心は、北米と同盟国の防衛である。ピトゥフィク基地はミサイルの早期警戒や宇宙空間の監視を担う。グリーンランドは北米防衛と、北大西洋を通じた欧州の同盟国の防衛を結ぶ位置にある。今回の協定は、その場所で米国が長期にわたって活動するための条件を強めるものと読める。さらに米国は、基地の周囲の重要インフラや投資が安全保障上の弱点とならないかを重視している。
ロシアにとって北極は、自国の北方そのものである。北方の防衛と核抑止、資源開発、沿岸の北方航路が国家戦略に結びつく。米国とNATOがグリーンランドでの監視・防衛を強めれば、ロシアは北極から北大西洋にかけての戦略環境の変化として受け止めるだろう。しかし、ロシアの主要な軍事拠点や資源開発の中心がグリーンランドにあるわけではない。ロシア自身の動きを示す具体例は、自国沿岸の北方航路である。ロシアはその利用と運営を進め、中国との輸送協力も拡大しようとしている。輸送の取り組みが進むことと、誰もが通年で安定して利用できる航路が完成することは、分けて考えたい。
中国は、北極に領土を持たない立場から関与を広げている。研究船による観測、航路の利用、資源への関心、国際的な議論への参加がその経路となる。今年の複数の研究船による北極調査は、科学的な知識を生み出す活動であると同時に、海洋や海底に関する情報が航行や安全保障にも関わり得ることを考えさせる。ただし、個々の科学調査が軍事目的だと確認されたわけではない。公共的な研究の価値を認めながら、データの利用や管理について透明性を問う姿勢が必要である。
中国とロシアが協力を深めても、両者の利害は同一ではない。中国は航路を利用する側として予測可能なアクセスを求め、ロシアは自国沿岸の航路を管理する側にある。協力の中にも立場の違いがある。
「分有化」は北極の三分割ではない
著者は、こうした変化を「分有化」という視点から捉えている。国際秩序を一国や一つの包括的な制度で管理することが難しい中、問題ごとに異なる国や枠組みが秩序の一部を担い、事実上の管理の仕方が形づくられていく変化である。北極では、大国間の競争がある一方、安全保障、航行、漁業、資源、環境、科学を一括して扱う制度はない。2008年のイルリサット宣言で、北極海沿岸の五カ国は既存の海洋法を基礎とし、北極海を統治する新たな包括的な国際法制度は必要ないとの立場を示した。「北極には法がない」「個別の協定も不要」という意味ではない。実際には、課題ごとに異なる取り決めが積み重なっている。
今回の協定では、グリーンランドの防衛について米国、デンマーク、グリーンランドが明文で調整した。一方、ロシア沿岸の航路には別の制度と利用国との関係があり、漁業、船舶の安全、科学、環境にもそれぞれの枠組みがある。これらは、米中露が合意して北極を三つに分けたことを意味しない。場所と分野によって異なる当事者や取り決めが並び、重なり、ときには隙間を残していることを説明する概念が「分有化」である。
重要なのは、その仕組みを誰がつくり、誰の声が届くかだ。大国の防衛や経済上の判断だけが先行すれば、現地社会の意思や環境上の共通利益が後回しになる。グリーンランドを地図上の「空白」として扱ってはならない。そこには人々が暮らし、自分たちの将来を議論している。
また、安全保障上の競争が強まっても、国際協力が全面的に終わったわけではない。北極評議会は軍事安全保障を扱う場ではない。ロシアによるウクライナ侵攻後、政治レベルの会合は停止している一方、科学や作業部会レベルの会合はオンラインで再開している。海氷・気象の観測、船舶の安全、環境保護には、引き続き国境を越えた協力が要る。対立か協力かの二択ではなく、どの分野で何が維持でき、どこに新たな取り決めが必要かを見なければならない。
日本は何を持ち寄るのか
日本には北極圏の領土がない。しかし、北極の環境変化は地球規模の気候や気象に関わり、航路や資源、安全保障をめぐる動きも日本と無関係ではない。日本が重視すべき第一の役割は、継続的な科学観測から信頼できる知見を生み、各国が判断を共有できる土台を提供することだと考える。整備が進む北極域研究船「みらいⅡ」を国際共同研究に生かし、その成果を航行の安全や環境保護、政策の議論につなぐことが重要である。
科学を「外交カード」にするという言い方には、慎重さも必要だ。研究を都合のよい政治的主張に従わせれば、科学が外交にもたらす信頼を失う。また、観測データや技術には民生と安全保障の双方に関わり得るものがある。国際協力に必要な開放性を保ちつつ、何を共有し、何を慎重に扱うかを、研究の独立性と透明性を守りながら判断しなければならない。
第二に、分野ごとのルールを実効的にし、その間をつなぐ役割がある。日本は中央北極海における無規制な公海漁業を防ぐ協定の当事国であり、航行の安全や環境保護についても国際的な仕組みに関わる立場にある。科学的な知見を制度上の判断に結びつけ、北極圏の国々や現地の人々の意思を尊重しながら協力することが必要だ。
第三に、北極を北極だけの問題として閉じないことである。北極での協力は、米国との同盟、北欧諸国との関係、海洋秩序、気候変動への対応ともつながる。安全保障上の現実を直視しつつ、科学や環境、航行の安全の分野では協力の余地を探る。その際も、北極圏の国々の主権と、現地社会の自己決定を置き去りにしてはならない。
グリーンランド防衛協定の行方は、施設の建設だけで決まるものではない。防衛上の利益と主権、自己決定、地元の暮らしを、実施の中でどこまで両立できるかが問われる。北極全体についても同じである。競争と協力が併存する現実を見据え、科学、法、現地社会の声をつなぎ続けること。それが、分有化する北極の秩序に日本が関わる道だと考える。